今宿 晋作
ニコラスのパズル
2010年の日本医事新報(No4499号;2010/07/17, p96-p98)に『ニコラスのパズル』というエッセイが掲載されている。これはこの年に小生がギリシャで開催されたランゲルハンス細胞組織球症(LCH)についての『ニコラス・シンポジウム』に招かれ講演した旅行記でもある。このシンポジウムではLCHの後遺症としての中枢神経変性疾患が議題であった。何故『ニコラスのパズル』なのかについては出来れば日本医事新報を読んで頂きたいと思うが、パズル(サイズは16cmx18cm、台座を含めて重さ1.5kg)の写真はこの補遺のなかで改めて示したい(図)。このシンポジウムはギリシャの富豪ポール・コントヤニスさんの息子さんであるニコラスさんが『LCH』という病気になり、Londonの病院へ連れていかれジョン・プリチャード医師(Dr. Jon Pritchard)に診察を受けて以来の医師と患者家族との交流・信頼関係から生まれ、設立されたものである。コントヤニス家族とJonがLCHという病気を治癒させるためには基礎・臨床研究者が集まってLCHを議論する場が必要だと相談し始まった、年に1回のシンポジウムである。1991年から毎年topicを決めて開催されてきた。一方、2010年のBlood のSeptember号には、Badalian-VeryのBRAF in LCHの論文がBrief report (Blood. 2010;116(11):1919-1923)として出ており、この論文についてDr. Robert ArceciとDr. Kim Nocholsが同じ号のBloodにcommentaryを書いている。従って、2010年はLCHの分子標的研究幕開けの年と言える。14年のスパンを経て、2024年にはLCHの治療として臨床で分子標的治療薬を使い始めることが出来たが、2010年のシンポジウムで議論したLCHの中枢神経変性疾患については2024年になっても未だ研究段階にある。
Jon Pritchard医師はpediatric oncologistで、小生がUSAのSt. Jude小児研究病院に留学(1978-1980)していた時に、初めて出会っている。帰国後、京都での私達のLaboで1980年代に行った高フェリチン血症の仕事をまとめ1989年にニューオリンズでのASCO学会に口演発表した時に、Jonが会場に来ていて、小生の発表を聴いた後カフェで、実はHistiocyte Society(HS)というのがあるが、是非この会に出席しないか、と熱心に誘ってくれて、その年の秋にカナダのHalifaxで開催された第5回HS学術集会に出席したのが、小生がHSと関わりを持った最初であった。その後、1998年には京都で第14回HS学術集会を主宰できた。Dr. Jon Pritchard(1942-2007)は残念なことに64歳という若さで脳腫瘍のため亡くなって、2010年の『ニコラス・シンポジウム』の時にはもうこの世にいなかった。JonのObituaryはLancet(2007;369:552)に出ている。このなかに、Jonの葬儀の際にポール・コントヤニスさんが25年前に生後40日の息子のニコラスを連れてLondonのGreat Ormond Streetの病院を訪れ、プリチャード医師から治る可能性は極めて低いと言われたが、医師としての彼は “He was the personification of hope and became an inspiration for us” であった、と述べた弔辞が記載されている。
Jonが亡くなった後、2010年の『ニコラス・シンポジウム』を主宰していたのはDr. Robert Arceci (愛称ボブ)である。ボブはPediatric Blood and Cancer(PBC)のEditorとして長年君臨したが、彼がEditorになってから毎週のように時間があるならこの論文をreviewしてくれるか?と秘書さんからE-mailが来るようになった。当時小生は高砂西部病院に勤めていて、Yesというと、金曜日には論文が送られて来るので、論文をコピーして帰りの新幹線の中で目を通し、週末にReviewを書くというのが週課になっていた。10年ほどの間にどれだけの数の論文をReviewしたのか、とても数えきれない。2010年の『ニコラス・シンポジウム』で小生が発表した内容を是非論文化するようにとボブから催促があって、ボブが共著になってくれるならという条件を付け、論文化したのがHematol Oncol Clin N Am. 2015; 29: 875–89. に出た論文である。2015年のある日、病院に行くとボブからメールが来ていて、この論文のproofが来ている、至急読んで欲しいという依頼で、午前中一杯、proofに充て、午後に送り返した。翌朝病院にいくと今度はカルロスさん(Dr. Carlos Rodriguez-Galindo)からメールが入っていてボブが亡くなった。交通事故だ、ということでショックのあまり茫然とした記憶がある。Dr. Robert Arceci(1950-2015)のObituaryはPBC 2015;62: iii に出ている。Bob’s vision of inventive, clinically relevant research and help train future leaders to fill a few of his many shoesと述べられている。彼の死も65歳という若さであった。Dr. Jon Pritchard とDr. Robert Arceci、もう少し長生きして呉れたら私達はLCHの違った風景が見られたかも知れないと思い、二人の死が惜しまれてならない。